研究者とは一体何をすべき仕事なのか。学問が好きで、自分の教養を高め、
努力を怠らない日々を送るものだ。それは極めて殊勝で真摯な姿勢である。
「勉強が好きである」、それは研究者にとって必要な資質である事は言うまでもない。
現在研究者として活躍している人々、あるいは先人たち、いやこれからの研究者にとっても、
それは欠いてはならない必要条件の一つである。
しかし「研究者、学者は博識である」、それだけ十分なのだろうか。研究の究極の目的とは一体何なのであろうか。
それは社会への貢献、科学への貢献なのではないだろうか。一見すると科学の進歩に全く関係のない研究、実験もあるだろう。
しかし、文学、哲学、化学、歴史学、物理学、宗教学、音楽、経済学、その他すべての学問の目指すところは
究極のところ、人類の叡智の増幅、人類の進歩なのである。レオナルド・ダビンチは中世の世で
「どんなに人間が進歩しても月には行けないだろう」と予想を立てた。しかし、その予想は今現在、
間違っていたことは衆人の知るところである。いま人類は火星にまで到達しようとしている。
学問の目的は、人類への貢献なのである。こんな事を真顔で言ったら、恥ずかしいし、
いやおこがましさすら感じられる人も多いのではないか。実際その通りである。
しかし、心の底、自分でも気づかないかもしれない奥底では、研究者たるもの学問へ貢献、
ひいては人類への貢献をしているんだ、という気概を持つべきであり、私自身もかくありたいと思っている。
私が青春時代に学問を志し、真剣に打ち込んだ動機もそれに憧れ、自分も科学者として生きていきたい、と考えたからである。
母校の上智大学で数多くの恩師に教えを受けた中に、故渋谷雄三郎先生がいらっしゃる。
先生は学究肌の名にふさわしい深い知性と教養を有する人語に落ちない人格者、そしてユーモリストであった。
決して学会での名声、権力、地位を求めず、学を極めることを日々の目標にしていた。
「先生は自分を学者だと思いますか、私は学者になれますか」という私の馬鹿な、ただし真剣な問いかけに対して、「
どうでしょうね、わかりません。あなたはもう学者です」と、涙をにじませて答えてくださった。そのゆっくりとし
た声がいまは懐かしい。親となった今の私は、渋谷先生の涙の意味を理解できるように思える。
私がここで公開する論文は、自由にダウンロードしていただいて構わない。自分が書く論文、口頭発表、
その他、いかなる目的に使って頂いても構わない。私の名前を出す必要もないし、断りも不要である。
もちろん出してもらっても構わないが、執筆者である私は特に希望するわけではない。
ウェブ上で論文を公開するというのは、まだまだ一般的ではないし、考えられる弊害もある、
そして論文に対しての非難批判は当然の事ながら承知の上である。執筆者である私の偏見と論点の誤りを指摘し、
そして私に対して批判を行うのは文学研究の醍醐味であり、私の喜びである。
私はアメリカ文学者としてここに、論文を発表する次第である。
見栄でもない、名声でもない。権力でもない。ましてや金銭の為ではけっしてない。
続く研究の新たな視座となってくれれば、浅学菲才な若きアメリカ文学者の私の喜びは、身に余るものである。